愛に気がつくかどうか

クリスチャンだと愛についてのお説教などを
聞く機会が多いのですが、今日、私は
「愛って目に見えるんだ」
という思いに至っちゃいました。


ただ、気がつくかどうかという点で
見えたり見えなかったりするのではないかと
思うのです。


なんで、今日突然そう思ったのかというと、
今日、高校時代からの友人に会いました。

三人で会ったのですが、途中で一人が子供のお迎えのために
帰宅し、残ったもう一人と私で1時間ほど過ごしました。



その帰り際、彼女が
「自分は自分自身のことや生活で手一杯で
子供の教育とかぜんぜん手をかけてなくて
ほったらかしなの・・・・」
という趣旨のことをいいました。


からしたら、食事もおやつも、
かばんや毛糸の帽子など何から何まで
とてもセンスよく手作りをしている
彼女からそんな言葉が出るとは
思っても見ませんでした。
途中で帰ったもう一人が聞いても
きっとびっくりする発言かと思います。


私の独断と偏見の視点だと
これ以上どう手をかければいいのか?
と思うくらい手をかけている彼女の
その発言を聞いたとき、
「愛は見えるじゃないか。」と突然思ったので
彼女に言いました。



「あなたは子供が健康に育つように食事を作り
子供の寝床を整えて睡眠を守り、子供が元気に
楽しく毎日を暮らせるように日々を整えてるじゃない。
そういう当たり前の毎日を作り出す以上に
手がかかることはないのだから、
あなたは立派に子供とかかわっているよ。」


というようなことを言いました。
そして、それを言いながら、
「愛はちゃんと形になってるじゃないか・・・」
と自分の中で、超納得!!


彼女には伝え損ねたけど
彼女の子供が元気な毎日を送っているのが
愛そのものなのではないだろうかと・・・・。


どの親も子供が平和な日常を送れるように
日々の暮らしを整えている。
だから、愛は、毎日の生活の中で、
嫌ってほど、見ているんだよね、
それを愛だと気づかずに・・・・。


未成年の子供を養育するのは
法律で親の義務となっているから、
そこにある愛に気がつかないけれど
愛がなきゃ、当たり前の日常は
ないんですね。


いまさら、気がついちゃいましたよ・・・・(^^;)


大人の私が、毎日を平穏に暮らしているのは
やはり一緒に住んでいる私の親が、私が働く環境を
整えたりしているからなのです。
日々、家族として生活できていることが
愛なんだなぁと思ったんです。



マザーテレサのいう


「愛は家庭にある」


というのは、そういうことなんじゃないかなぁと・・・・。



愛は毎日、見てるんです♪