最近

ここんとこ、書くたびに、
久しぶりに教会に・・・・って
感じになってますが、
やっぱり、久しぶりに先週の日曜は
教会にいきました。


教会に行くと、その後、色々考える事に
出会ったりします。
今日、読んでた本に「許す」って話がありました。


「許す」ことから始まるって本当か?
って話でした。



前後の話を端折ってしまうので、ちょっと分かりにくくなりますが、
前後を書くと長くなるし、書くのも大変なので端折ってしまいます。



結論から言うと、「許す」事から始まるという事はなく、
無理に「許す」ことから始めても、
不健全で不健康で、何の解決にもならないということでした。


「許す」というものには二つの要素があって、
「復讐をしない」というものと
本来は罪を負わなくてはならない人間の「罪を免除する」というもの
だそうです。


復讐をしないこをは確かに賢明なことです。
復讐をしてもむなしいだけで、何の解決にもならないし
次に悲劇が生まれるだけかもしれない。



でも、罪を犯した人間とその被害者の間で、
まず、罪を免除することから始まってしまったら、
被害者は、
「じゃぁ、私の苦しみは何なのか?」
「今までのことはなかったことなのか?」
という事になります。


これは理屈に合いません。
人の感情は理屈に合わないことを無条件に納得するようには
できていません。


著者は、さまざまなことを乗り越え、長い道のりを経て、
全ての整理がついた上で、最後の結論として「許す」という行為があるのであり、
そのような経過を経て「許す」という結論に至った場合は
「救い」があり、「癒される」のだという趣旨のことを
書いてました。



それを読んで経験的に納得しちゃった私です。(笑)


主の祈りの中に

「われらに罪を犯すものをわれらが許すごとく
われらの罪をも許したまえ」

とありますが、われらが許せない罪は
たぶん、神様も許せないんじゃないかと・・・。

殺人とか、強姦とか、神様はたぶん、
許したことは一度もないんだろうと思います。


「許さなくてもいい」という「許し」を
神様は、人間に与えてくれているのではないかと思いました。



時間をかけないと許せない事が、人それぞれ
沢山ありますが、


『納得できたら「許し」てください。許せなくても、許せない貴方を私は許します。』



と、神様は人間にそう言っているのかも知れないと
思いました。